記念日



「ふぅ・・」
カウンターテーブルにつくなりフランソワーズは小さなため息を一つついた。
「どうぞ」
注文したブレンド珈琲をマスターがフランソワーズの目の前にそっと置いた。
「あら・・」
ソーサーに金色の紙に包まれたチョコレートが一つ添えられていた。
「疲れているときには甘いものが欲しくなるでしょう?」
「まぁ、ありがとうございます。でもそんなに疲れた顔してたかしら?私」
「ふふ・・気になさるほどでもないですよ。ちょっとそんな気がしたものですから。」
そういうとマスターは先ほどからコンロにかかっている鍋にかがみこんだ。
この一歩通りからひっこんだ場所にある喫茶店は
フランソワーズが張々湖飯店でのアルバイトの帰りにたまに立ち寄る店で
磨かれた深い茶色のイスやテーブル、少し落とされた照明が
表通りに立ち並ぶファッショナブルなカフェとは違い落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
白髪まじりのグレーの髪に、温和な笑みを浮かべて客を迎えるマスターは
どこかの会社を定年退職した後、この喫茶店のマスターとして雇われたのだという。
絵画を愛していて、彼がこれはと思った作家の作品が店内に数点飾られていた。
彼自身も絵を描くらしいのだが、フランソワーズはまだ彼の作品をみたことがなかった。
マスターが添えてくれたチョコレートはフランソワーズの口の中で
甘くしかしほろ苦くとけていった。

ああ・・・・

と 再びフランソワーズは心の中でため息をついた。
朝起きて、洗濯機を回して、朝食を作って、イワンにミルクをあげて、
洗濯物を干して、ざっと掃除機をかけて
飯店で働いて、帰ってきて、夕飯の支度をして
繰り返す毎日。
そして、夕飯をせっかく作っても遅く帰ってきて食べない彼。
「今日は遅くなるから夕飯はいいよ。先に休んでいて」
といってバイトに出かける彼。
だから別に彼女が彼の夕飯の用意をしなくてもよいのだが
一つ屋根の下に住んでいながら、一緒に食事をしないというのが
フランソワーズにはなんとなくさびしく感じられるのだった。

私、何やってるんだろう〜。
毎日同じことの繰り返しで私の人生おわっちゃうのかな・・・・・。
ずっと
一生?

そう思うと彼女の気持ちはますます沈んでゆくのだった。

「どうです?ひとつ味見してくださいませんか?」
マスターがティースプーンになにやらのせてフランソワーズに差し出した。
「りんごのジャムを作ったんですよ。どうです?」
言われるまま、フランソワーズはスプーンを受け取りジャムを口の中に入れた。
りんごの香りが口いっぱいに広がった。
「まぁ、少しあっさりとしていますのね。蜂蜜を使っているのですか?」
「いえ、砂糖だけです。蜂蜜とお感じになったのはリンゴそのものの蜜のせいでしょう」
「なめらかですね。裏ごしするのですか?」
「ええ、このざるでね。」
と言ってマスターはもち手尽きのステンレス製のざるをフランソワーズに見せた。
「ヨーロッパなどでは果物の量に対して80パーセントの砂糖を使ってジャムを作るようですが・・
もっともジャムは保存食品ですから、それぐらいの砂糖の量でないともちませんがね、
現代は冷蔵庫もありますし、それに日本人の口には甘すぎると感じるのですよ。
それで私は35パーセントで作ってみました。」
「りんごそのものの香りがひきたちますね。」
「そうなんです。その代わり保存は冷蔵庫で、早めに食べ切ってしまわないといけませんが。
えーーと今日は何日でしたっけ?」
「え?今日は10月の・・・・」
マスターはフランソワーズが告げた日付を小さな紙片にさらさらと書くと
その紙をガラスの小瓶に糊でぺたっと貼り付けた。
「はい、おすそ分け」
そう言ってマスターはフランソワーズにその小瓶を渡した。
中には出来上がったばかりのマスターお手製のりんごのジャムが詰まっていた。
「あの、あの・・・・」
フランソワーズが戸惑っていると
「アナタがたまたま私がジャムを作っているところに居合わせていたから、おすそ分けです。」
「ありがとうございます。あの本当にいいんですか?」
「いいですよ。少ししかないですけど。」
マスターはにっこりとして言った。
フランソワーズはマスターの気持ちが嬉しかった。
おすそ分け といって、客にぽんっとジャムをプレゼントするマスターの気持ちが。
そしてフランソワーズはマスターを前に
急に自分が恥ずかしくなった。
心の中でぶつぶつ言って落ち込んでいた自分が。

自分のことばっかりだった・・・。

こみ上げてきて、フランソワーズが思わずマスターから顔をそらした時だった。
「フランソワーズ」
聞き覚えのある声がした。
「ジョー、どうしたの?バイトは?」
「やだな、今日は休みだって言ったじゃないか。あれ?言ってなかった?」
そう言ってジョーはフランソワーズの横の席に座ると
ブレンドをお願いします とマスターに頼んだ。
「飯店のバイトの後、よくこの店に立ち寄るって前に君から聞いたから
のぞいてみたら、やっぱり君がいたからさ。よかった〜。」
「あのーーーよかったって?」
「今日、バイトの給料日だったんだ。さっき確認したら振り込まれてた。
たまにはさ、どこか美味しいものでも、食事にいかない?」
「あの、ジョー?」
「博士には連絡済だよ。いいじゃないか。
僕は毎日君のことをありがたいなって思ってた。だから、感謝の気持ち。」
「ありがたい?私のことを?」
「うん。毎日食事を作ってくれて洗濯もして・・・」
「それはジョーだって手伝ってくれているじゃない。」
「あーーでも君にはかなわないよ〜。」
「でも・・」
「いいじゃないか。なんでも。とにかくたまには出かけようよ。」
フランソワーズがためらっていると
ジョーがオーダーしたブレンドを差しだしながらマスターが言った。
「行ってらっしゃい。きっと楽しいですよ。」





「「ねぇねぇ、それがお母さんたちの初デート?」」
島村家の寝室で綺麗に身支度をしたフランソワーズに
双子たちがうるさく纏わりついていた。
「そうね、そういうことになるのかしらね。」
フランソワーズは懐かしそうに目を細めた。
あのとき、自分は本当に周りに支えられて生きているのだと思い知らされ、
自分の方が心底ありがたいと思った。
そして、ジョーの横にずっと寄り添っていたいとはっきりと思ったのもあのときだった。
それからいろんなことがあった。
ジョーと二度と会えないのではないかと思ったこともあった。
そのジョーは今では自分の夫となり
願いは叶えられ自分は彼のそばに寄り添う存在となった。

「さぁさぁ、あなたたち、これからお母さんたちはお出かけします。
張おじさんが来てくださいますからね。おとなしくお留守番よろしくお願いします。」
「「はぁ〜いい」」
いつにも増して美しい母を双子たちはため息まじりに見上げるのだった。

階下に降りていったフランソワーズを、支度を済ませたジョーが待ち受けていた。
手に手をとって出かけた両親の後姿を双子は見送った。
「いいなぁ〜お父さんとデート」
すぴかはちょっぴり拗ねていた。
そんなすぴかにすばるが言った。
「しょうがないよ〜。今日はけっこんきねんびなんだから」


おしまい
2009/7/24
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